富洲原の芸者と懸賞金
どんな伝承か
二・二六事件の一週間ほど前、著者は作曲家の中山晋平を誘って三重県の富洲原へ出かけた。近くの町が合併して朝明市になるのを祝う小唄を作り、土地の芸者が四日市の博覧会で踊れるようにするためである。二人は土地一番の料理屋住吉桜に泊められ、朝から十数人の芸者にもてなされた。あとで聞くと、歓迎委員たちは若い芸者をけしかけ、どちらかを口説き落とした者に三百円の懸賞金を出すと内々に決めていたという。堅物の中山も酒を断っていた著者も乗らず、のちに大笑いとなった。委員は頼まれもしない千円を払い、著者は色紙などを五十枚書いて応えた。
原典より
歓迎委員諸君は土地のひとつ話にもというので、内々若い芸者にけけしかけて、もしどっちかを射落としたものには、三百円の懸賞金をだすということになっていたんだそうである。—— 私の心霊術(長田幹彦・1955年(昭和30年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
私の心霊術(長田幹彦・1955年(昭和30年))
『私の心霊術』は、長田幹彦が昭和三十年に著した心霊研究の随筆集である。死後に残る霊や地獄・極楽をめぐる考えを述べ、熊本の家系や安達謙蔵との交わり、東京放送局の文芸顧問だったころの回想、霊友会など戦後の新興宗教への批判、前著『霊界』への反響と自らの信仰を語る。「心霊科学の来世観」「霊界の構造」「ぼくの信仰」などの章からなり、末章「ある霊媒の生態」では霊媒服部との実験とそのトリックの顛末を描く。