シマン坂の鎌倉勢伝説
どんな伝承か
深見の一之関から道を少し南へ下ると、集落の外れから坂道になり、土地ではこれをシマン坂と呼ぶ。昔、鎌倉勢がここまで攻め込んだと言い伝えているという。柳田国男は、坂を上った向こうが島津という字であることから元は島津坂だったのではないか、あるいは四万という響きから合戦の伝説が生まれたのかもしれないと考えた。境川はこの坂の真下まで曲がり寄って淵をなしており、坂は一つの防衛の要所であった。坂の上の岡が昔の領主の住まいで、島津と一之関の二つの村を治めていたのではないかとも柳田は推し量っている。
原典より
此道を少し南へ下ると、部落のはづれから坂路になつて居て、之をシマン坂と謂ひ、昔鎌倉勢がこまで攻め込んだと言ひ伝へて居るさうである。—— 定本柳田国男集 第3巻(柳田国男・定本柳田国男集) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
定本柳田国男集 第3巻(柳田国男・定本柳田国男集)
『定本柳田国男集 第3巻』は、柳田国男の紀行・日記・随筆を集めた著作集の一巻である。相模・武蔵の村々を歩いた「水曜手帖」、昭和二十三年八月の自序を持つ「北国紀行」、明治四十三年の「五十年前の伊豆日記」、国際聯盟の委任統治委員会に勤めた大正十一年の「瑞西日記」と「ジュネーブの思ひ出 その他」を収める。後半の「菅江真澄」は昭和十七年二月の序を付け、真澄の著述と旅の跡を年を追ってたどり、写真解説を添える。