太田道灌の暗殺と辞世
どんな伝承か
太田道灌は永享四年に太田資清の子として生まれ、幼名を鶴千代、のちに持資と名乗り、出家して道灌と号した。文武に秀でて名声は広く知れ渡ったが、それをねたんだ上杉顕定の策謀により、文明十八年七月二十六日、相模国糟屋の居所で、主君上杉定正の一時の怒りから差し向けられた五百余騎に囲まれた。わずか三十余人の手勢で防いだものの家来は次々と討たれ、道灌もついに大石彦四郎に討ち取られた。命を惜しむ心を詠んだ辞世の歌が伝わり、著者は武人の末路に深い感慨を記している。
原典より
然してその名声を嫉める上杉顕定の奸計に依り文明十八丙午年(一四八六年)七月二十六日、相州槽谷の居所にて浅智なる其の主上杉定正一時の忿怒のため、…—— 城西風土記と昔語り(熊沢宗一・1959年(昭和34年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
城西風土記と昔語り(熊沢宗一・1959年(昭和34年))
『城西風土記と昔語り』は、東京中野の江古田に住んだ熊沢宗一が昭和三十四年に著し、自ら発行した郷土誌である。中野長者と淀橋の伝説、御犬小屋や桃園の旧跡、新井薬師、江古田の獅子舞、内藤新宿や高田馬場の昔語りなど、中野と近在の伝説・旧跡・寺社を、古文書や碑文、琵琶歌も交えて記す。全二十章の後半には著者の百姓時代や終戦直後の食糧事情、台風の被害、日露戦争の軍隊日誌を収め、巻末に著者略歴を付す。