大旱魃を機に開かれた新川
どんな伝承か
白子町の関では、先に関七水門を設けて農業用水を確保していたが、井戸川地区ではなお水が足りず、新川を掘ることになった。宝暦八年に大日照りが起きたのをきっかけに、弥右衛門・内匠・源蔵の三人の名主が連名で幕府に水利の開発を願い出て、関の西にある湿地や沼の水を下流へ引こうとした。幕府の役人金沢瀬兵衛と斎藤監物の設計と指図のもと、名主を先頭に農民が力を合わせ、関大水門から南白亀川までの掘削をなしとげた。本陣は弥右衛門の家に置かれた。工事の途中、南日当の土地の一部を掘ることで争いが起きたが、役人の取りなしで収まり、以来二百年、渇水の心配がなくなったという。
原典より
之に対して幕吏金沢瀬兵衛、斎藤監物の設計指示に従って、名主を先頭に農民一同協力して、関大水門から南白亀川迄の開鑿に成功した。—— 白子町史 より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
白子町史
『白子町史』は、千葉県白子町の歴史を記した町史である。一ノ荘、五井、驚村、南白亀、観音堂などの地名の由来、源頼朝の駒止橋や御殿山の伝説、宝暦の新川開鑿、驚獅子の雨乞い、田辺万吾や皆川検校の事績、お塚山の伝承を、由来記や家の文書、村誌を引いて記す。地名と伝説を十三の項に分けて述べ、続く第五節には常福寺のらかんまきや白子神社のなぎなどの天然記念物を図とともに載せる。