こっちこいこっちこいの板の話
どんな伝承か
山の友人ヨシノブが十代の大学生だった五月、恋人にふられた直後にひとりで北八ヶ岳へ出かけた。茅野から登って残雪の山麓で四日を過ごし、麦草峠の小舎へ下りると、その夜の泊まり客は彼だけだった。わざわざ狭い屋根裏部屋で寝たところ、寒いのに冷たい汗が身体を締めつけ、歯が鳴るのに金縛りで動けないまま朝を迎えた。主人に話すと、小舎を建てていた頃に上の山で雪庇が崩れて三人が死に、一人の左手首だけが見つからなかったという。翌春、雪溜りの水に浮いた手首を、主人は建築用の角材で「こっちこい」と手繰り寄せた。その角材が屋根裏の壁に使われ、壁際で眠る者が時おりうなされるのだという。
原典より
その時の角材が、ちょうどヨシノブが泊まった屋根裏部屋の壁に使用されているのだという。—— 奇譚草子(夢枕獏) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇譚草子(夢枕獏)
『奇譚草子』は、夢枕獏が雑誌の連載ページに書き継いだ怪異譚集である。「〜話」と題した短い話二十篇を収め、生霊の手、階下で蹴ったばかりなのに二階に座っていた祖母、雪山の死体、夜ごと来る小人など、多くは友人や知人から聞いた話を著者が聞き手として書き留める。ただし口上で架空の話も混ぜると断り、雪山の死体の話は読者の指摘で翻訳怪奇小説と同じ筋だったと認める続きの回を置く。末尾は箱根に住んだ元関取に憑いてスサノオと名告る存在の話である。