走ってゆく足跡の話
どんな伝承か
著者が学生時代に同じ山小屋で働いた三歳年上のブラさんは、六月の雨の頃、恋人に去られた傷心を抱えて一人で山へ向かった。島々宿から歩き出して林道を進むと、すぐ前のぬかるみを、姿の見えない子供が裸足で踏んでいくような足音が先に立って進んだ。足音は島々谷との分かれ道で別の道へ消え、徳本峠の小屋に泊まった翌日にもまた現れて、明神では上高地の方へ去った。それからも分かれ道に来るたびに逆の方へ駆けていった。五日目の夜、内側にえぐれた岩壁の下にテントを張ると、真夜中に足音が狂ったように跳ね回った。灯りを手に外へ出たその時、背後で岩壁の天井が崩れ、大岩がテントを押し潰したという。
原典より
見えない子供が、素足で雨の中を歩いているようだった。—— 奇譚草子(夢枕獏) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
奇譚草子(夢枕獏)
『奇譚草子』は、夢枕獏が雑誌の連載ページに書き継いだ怪異譚集である。「〜話」と題した短い話二十篇を収め、生霊の手、階下で蹴ったばかりなのに二階に座っていた祖母、雪山の死体、夜ごと来る小人など、多くは友人や知人から聞いた話を著者が聞き手として書き留める。ただし口上で架空の話も混ぜると断り、雪山の死体の話は読者の指摘で翻訳怪奇小説と同じ筋だったと認める続きの回を置く。末尾は箱根に住んだ元関取に憑いてスサノオと名告る存在の話である。