大黒鉱山の六人病死事件
どんな伝承か
信州と越中の国境、大黒岳の大黒鉱山では、雪のために行き来が絶え、野菜を送ることができなくなった。人足を雇っても大黒岳の頂上には曇雲が棚引き、快晴の日はほとんどない。年が明けた一月十三日、ついに最初の病死者が出た。山内では野菜が欠乏し、雪上を走って生木の皮を剥ぎ、煎じて服用するありさまだったが、ついに六人が同じ病で倒れ、残る者にも同じ兆候が出た。残員は六人の死骸を腐らせないよう雪中深く埋め、懸崖と絶壁を攀じ、大雪渓を滑って命からがら村落まで帰り着いた。話は下山者から広まり、警察が死因を調べ、地方紙のみならず東京の新聞までが書き立て、鉱山主は世間から鬼か蛇のように扱われたという。
原典より
此の大事件の發生は明治四十二年の一月の中旬で、場所は信州と越中との國境著名の險岳大黒岳背後の無人の境域てある—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。