深呼吸の修養と焼岳の雪中登攀
どんな伝承か
著者が具体的に精神修養の方法を習ったのは、明治四十三年七月初旬、信飛越国境の無人境を往復して久しぶりに上京したときのことである。神田区三崎町三丁目一番地にある学生時代からの恩人の邸に泊まると、早朝、夫人と十二歳の令嬢が奥座敷の縁側で静坐して深呼吸をし、屋上の物干場では書生たちが熱心に深呼吸をしていた。夫人によれば、それは藤田霊斎の息心調和の精神修養法で、胆力の養成や身心の強健に不思議な効力があり、人体の外形にも変化を来たすものだという。著者も即日から練習を始め、暑中の九十日にわたって続けた。やがて東京の騒がしさでは霊妙の域に達しがたいと考え、その年十一月、信濃飛騨国境の焼岳へ雪中登攀を断行するに至った。
原典より
時は明治四十三年七月初旬 暫く信飛越國境の無人境域を往復して久し振りにて出京した當時のことである…—— 修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年)) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
修養と通力(高橋宮二(逐堂生)・1913年(大正2年))
『修養と通力』は、高橋宮二が著し、大正二年に東京宝文館から発行した、深呼吸による精神修養と千里眼の実験の記録である。第一編「実験四年」は、修養の方法と焼岳での雪中の修養を述べ、千里眼の能力を得た妻貞子を明治四十三年から四年間養い、福来友吉博士らの立ち会いで透視と念写を試みた経過を記す。第二編「山の趣味」は附録の紀行で、北アルプスの大黒鉱山で雪中に半年埋もれた人夫六人の遺体を片付けた顛末と、黒部谷や中津川への旅を収める。