関宿で再び降った神仏の札と踊り
どんな伝承か
三島を過ぎた幕臣堤氏の一行が原、吉原の宿へ進むころには、お札降りの騒ぎはしだいに衰え、ついに見られなくなった。ところが伊勢の亀山の城下を後にして関宿に着くと、またもや神仏の札が降ってきた。ここでは鐘や太鼓を打ち鳴らし、見慣れない風体で「ええじゃないか」と唱えていたが、それが何のことなのか一行にはまるで分からなかった。老若男女が入りまじって踊り狂いながら歩き回るので、街道を通り抜けるのも難しいほどだったと、堤の手記は伝えている。
原典より
次で勢州龜山城下を去り、闘宿に至りしに、又々神佛符降り來り、此所にては鐘太鼓を打ち鳴らし、一種異の風俗をなし、「えいぢやないか、くく」と日へる、更に其何たるをず。—— 日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り(土屋喬雄) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り(土屋喬雄)
『日本社会経済史の諸問題-維新の御札降り』は、土屋喬雄の論集『日本社会経済史の諸問題』のうち、昭和六年に『中央公論』へ発表した論考「維新のお札降り」を収めたものである。慶応三年秋から京都・大阪を中心に起こり、東海道や江戸、淡路、高松にまで広がったお札降りと「えいぢやないか」の騒ぎを、大隈重信らの目撃談、幕臣の手記、流行唄、年表類から描く。騒ぎの背景に開港後の物価騰貴と王政復古への期待を見て勤王派の関与を論じ、末尾に次章の冒頭が続く。