武蔵、吉岡伝七郎を撃ち殺す
どんな伝承か
吉岡清十郎が武蔵に敗れて剣を捨てたあと、その弟で大力で知られた伝七郎は、兄の恥をすすごうと自ら武蔵に試合を申し込んだ。武蔵はこの伝七郎と京都の洛外で立ち合い、これを打ち殺した。兄に続いて弟まで失った吉岡家の門人たちはひどく悔しがり、数十人で相談して清十郎の子の又七郎を押し立て、一乗寺下り松での決闘を武蔵に申し込むことになる。武蔵自身は、清十郎や伝七郎と立ち合ったときはいつも自分が遅れて行ったと振り返り、次の決闘ではそのやり方を改めて先に出向いたという。
原典より
武蔵はまたこの伝七郎と洛外に勝負し、彼を撃ち殺してしまった。—— 観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究) より引用地図で位置を見る
※伝承地の場所は必ずしも正確ではありません
出典の文献について
観念は生物なり(福来友吉・心霊・念写研究)
『観念は生物なり』は、福来友吉が諸雑誌に発表した論文を集めた心理学と心霊研究の論集で、日本心霊学会刊、序は大正十四年春に箕面山の麓で記されている。観念と身体の関係、夢、潜在精神と病気、プランセット(自動書記)、狐憑病の伝染や尼寺のヒステリー、宮本武蔵の剣道などを論じる。明治四十三年以来接した御船千鶴子・長尾郁子・三田光一ら八人の通力者の透視と念写の実験も報告し、「観念と身体との関係」から「生命学と心霊研究」までの十四篇を収める。